マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

109 田中保善著『泣き虫軍医物語』に見る第二次世界大戦の諸相

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ボルネオ島

Adam ClayによるPixabayからの画像

はじめに、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』「ボルネオ島*1から抜粋して、田中保善著『泣き虫軍医物語』の舞台となったボルネオ島について簡単に紹介しておきたい。

ボルネオ島南シナ海(西と北西)、スールー海(北東)、セレベス海マカッサル海峡(東)、ジャワ海とカリマタ海峡(南)に囲まれた東南アジアの島で、面積は725,500km2。日本の国土の約1.9倍の大きさ。インドネシア・マレーシア・ブルネイ、この3か国の領土である。


年表から日本が関わった時期及びその前後をピックアップすると、1888年オランダ領。1888年7月、イギリス保護国北ボルネオ(1882年 - 1963年)が成立。1942-1945年、第二次世界大戦では日本が占領。1945-1949年インドネシア独立戦争を経て南部がインドネシア編入された。


ボルネオ島アルプス・ヒマラヤ造山帯環太平洋造山帯の交点にあたる地域に位置しているため、全体的に山がちの地形となっている。この島の熱帯雨林は世界最古の熱帯雨林と考えられている。最高峰は島中央を貫くイラン山脈の北東部、マレーシア・サバ州に位置するキナバル山で、標高は4095m。


鉱物資源が豊富で、石油、石炭、ダイヤモンド、金、銅、スズ・鉄、マンガンアンチモンボーキサイトなどが産出。気候は熱帯気候であり、降雨量は年平均4000mm。熱帯雨林が発達しており、北部にはスマトラサイ、ボルネオゾウが生息し、その他、オランウータン、テナガザルなどの中大型哺乳類や、ワニ、ニシキヘビなどの爬虫類が生息。果実に乏しい森。

 

坂口安吾GHQ 御用作家だったのか? 対照的に、胸を打つ田中保善著『泣き虫軍医物語』

坂口安吾のエッセーをパソコン向けのKindleアプリ(Amazonのサイトから無料で入手できる)で読んでいたところ、大変ショッキングな文章に出くわした。坂口安吾について再考を迫られる出来事だった。この男、こんなに頭が軽かったのかと失望した。

続いて織田作之助のエッセーを読み、これにも失望(この人、エッセーは書かない方がいい)。太宰にはとっくに失望していたが、安吾と織田作には一目置いていたのだった。

何にしても、彼らを作家という以上に思想家と見ていたわたしの評価が間違っていたことが判明したのだ。虚像だった、彼らは器用な小説家にすぎなかったと心底失望した。

勿論、彼らの小説に対する評価が全面的に下がったわけではない。芸術的観点から見れば、素晴らしい作品は幾編もあるだろう。

ただ、この三羽ガラスの頭の中の頼りなさを考えるとき、日本文学が下り坂になったのも当然だったように思えたのである。

坂口安吾について、ウィキペディアより引用する。

戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治織田作之助石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。文学においての新人賞である芥川龍之介賞の選考委員を第21回から第31回の間務め松本清張、辻亮一、五味康祐などの作家を推した。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された。

坂口安吾は純文学だけでは無く、歴史小説推理小説、文芸、時代風俗から古代まで広範な歴史における題材を扱った随筆や、フランス文学の翻訳出版、囲碁、将棋におけるタイトル戦の観戦記など、多彩な活動をした一方で気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の作品も多く、小説家としての観点からはけっして「器用な」小説家とはいえないが、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている。*2

豪放磊落な面と繊細さを兼ね備えた、スケールの大きな思想家であり作家――という安吾のイメージがわたしの中で変わるような、ショッキングな文章は、坂口安吾 著『坂口安吾全集・444作品⇒1冊(Kindle版)』(坂口安吾全集・出版委員会、2015)所収「もう軍備はいらない」に存在した。

 自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。
 冷い戦争という地球をおおう妖雲をとりのぞけば、軍備を背負った日本の姿は殺人強盗的であろう。*3

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 高い工業技術とか優秀な製品というものは、その技能を身につけた人間を盗まぬ限りは盗むわけにはゆかない。そしてそれが特定の少数の人に属するものではなく国民全部に行きたわっている場合には盗みようがない。
 美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。*4

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人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。*5

坂口安吾に魅了され、大学時代に文庫本を買い漁ったものだが、このエッセーの存在は知らなかった。これを引用した論評も記憶にない。

連合国軍最高司令官総司令部 GHQ の民政局は、占領政策の中心的役割を果たした。ここは左翼の巣窟だったといわれる。

WGIP(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)が占領政策の一環として行われたそうだから、戦後生まれの人間がこのようなことを書くのであれば、不思議ではない。

ところが、安吾明治39年(1906)に生まれ、昭和30年(1955)に死去した、明治生まれの人間なのだ。明治期から日本を見てきた作家でありながら、ここまでバランスを欠いた見方をする人間というのは、珍しい気がする。

そう思うのは、わたしに比較対象ができたからかもしれない。その対象とは、田中保善著『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)で、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心に体験した記録である。

田中保善氏も明治生まれの人間で、明治42年(1909)の生まれである。安吾と 3 歳しか違わない。両者の戦争観のこの違いは何だろう? まるで、別の戦争であったかのようだ。

尤も、安吾は出征していない。エッセー「魔の退屈」には徴用令・出頭命令体験について、次のように述べられている。

戦争中、私ぐらゐだらしのない男はめつたになかつたと思ふ。今度はくるか、今度は、と赤い紙キレを覚悟してゐたが、たうとうそれも来ず、徴用令も出頭命令といふのはきたけれども、二三たづねられただけで、外の人達に比べると驚くほどあつさりと、おまけに「 どうも御苦労様でした」と馬鹿丁寧に送りだされて終りであつた。私は戦争中は天命にまかせて何でも勝手にしろ、俺は知らんといふ主義であつたから、徴用出頭命令といふ時も勝手にするがいゝや何でも先様の仰有る通りに、といふアッサリし た考へで、身体の悪い者はこつちへと言はれた時に丈夫さうな奴までが半分ぐらゐそつちへ行つたが、私はさういふジタバタはしなかつ た。*6

坂口安吾著『堕落論』(角川文庫 - 角川書店、1977改版30版)「年譜」の「昭和19年(1944)38歳」に「徴用のがれのため日本映画社の嘱託となる」とあることから考えると、安吾は嘘つきである。一方、田中氏は何のけれん味もなく、赤紙召集令状)、身体検査について記述している。

緒戦華々しかった太平洋戦争もこの年になると、太平洋の島々は次々と連合軍に占領されて戦局は重大化し、開業医も次から次と召集されていった。丙種合格の国民兵の医者は、招集されたら衛生兵にされるが、軍医予備員を志願して教育を受けておけば、招集時には軍医として入隊できるというので、私をはじめ国民兵の医者は揃って軍医予備員を志願した。*7

田中氏は身体検査での不合格を願っていた。事前に仕入れた情報に従って受け答えをするが、それが裏目に出て合格してしまう。

というのも、田中氏には18歳のときに罹患した多発性神経炎の後遺症があり、手足に振顫があった。検査のとき、両手を揃えて前に伸ばしたら、振顫が止まらなかった。試験管に「静脈注射ができますか」と訊かれ、そのときに「できます」と答えなければ、不合格になっていた可能性が高かった。

田中氏が、心の奥では不合格を希望しながら口では注射でも何でもできますと言ったのは、試験管の心証をよくして不合格になる作戦をとったからなのだ。後で、田中氏は医者と医者との間柄で不要な粉飾や虚勢を行ったことを反省している。

出征に当たり、地元の地区一同約 70 戸総出で武運長久の祈願祭を祐徳稲荷神社でいとなんでくれ、帰りには地区有志による送別会が開かれた。

田中氏の妻は接待に忙しく、目が離れた隙に、4 歳になる長女が勝手にご馳走を食べて疫痢になり、生死不明の重態に陥ってしまう。自分で治療してやる時間のない田中氏は長女をすぐに入院させ、後ろ髪を引かれる思いで、町主催の壮行会に出席した。その下りは次のように描かれている。

 駅には既に沢山の見送りの人達が集まっていた。親類、先輩、後輩、友人、医師会、町の有志の方々、私が校医をしていた能古見国民学校児童 3 年生以上と能古見村青年学校生徒並びに先生方全員、鹿島駅内外にあふれんばかりである。その日はひじょうに暑かったが、国民学校の児童は皆素足であった。大地は土埃が立ち、焼ける程暑く、児童達は両足を揃えて立っておられずに、交互に足踏みをしていた。……(略)……
 〽我が大君に召されたる
   生命はえある朝ぼらけ……
 児童達が日の丸を振り振り無心に歌う。一般の見送りの人も同調して合唱は波のごとく広がり、駅の内外を包んだ。姉のテイ子の目に涙があふれ出した。私の家族の目にも涙が光っている。瀕死の愛児を残して心は後に引かれながら不平も言えず、“大君に召されていく” 私の気持ちを察して、私を可哀想と思って涙が出てきたのであろう。私も感極まって涙があふれてきた。出征兵士が出発にあたり泣き出すような女々しいことは男の恥である。泣くまいと思っても涙は止まらず、私は直立不動の姿勢で流れる涙をふきもせず、列車のデッキに立っていた。*8

前途多難な出征が予想される記述である(幸い長女は助かる)。そして、見送る側からも、見送られる側からも、温かく繊細な情感が伝わってくるではないか。

実際に、戦地での――否、戦地に向かう途中から既に――田中氏は一難去ってまた一難の連続であり、生還は奇跡的であった。そのような中にあっても、田中氏の率直で素直な感情の発露や細かな観察眼は衰えない。戦地での連合軍との戦いの合間にあったのは、とにかく「生活」であり、その生活スタイルが大きく崩れていなかったことに驚かされる。

不足する食糧や物品の調達にも、現地の人に対しては軍票での支払いや物々交換が貫かれていた。兵隊たちに餓死者も出ているような状況であるのに、である。日本が負けたことで、軍票はただの紙切れになってしまうが、無価値になった軍票でバナナを買ってくれと追いかけてきた現地人がいた。

この現地人たちはケニンゴウで山崎知事の下で働き、人間的に平等に待遇され、感激して、敗戦後もその恩を忘れず、なんとかして日本人に恩返しをしようと思っているのであった。*9

また、意外だったのは、戦争末期の過酷な戦地ボルネオにあっても、危険地帯と安全地帯が存在したということである。安全地帯は、連合軍の侵攻によって、反日ゲリラの夜襲、また気象などによって、変化する。

餓死の多くは単独で訪れたのではなく、マラリアが先にやってきている。それがどのような訪れかたであったか、典型例と思われるものを引用する。

移動を開始した各部隊は、スコールのため出現した地図にない沼を腰まで没して渡ったり、密林中道なき所をさまよい、マラリアに冒され、発熱し衰弱して歩けなくなり、落伍して食糧がなくなり餓死する兵隊も続出した。*10

そして、戦地での敗戦後の困難。敗戦ゆえの困難は大きかった。

敵に降伏に行く惨めな行軍にも物資は必要であるのに、けわしい山道で頼りになる水牛は連合軍の告知により、使用できなくなった。

俘虜後の収容所での飢餓感から、交換物資もなくなった日本兵による食糧品の窃盗事件が頻発するようになる。

監視の豪州兵に発見されると、体刑として石切り場のメンパクトに送られた。そこでの重労働のため、メンパクトは死を意味した。何とか別の刑をと嘆願し、道端に土下座して通行人に一日中頭を下げることを実行することで刑の執行を免除して貰う。

灼熱の太陽に照らされながら、缶詰を盗んだ兵隊は「私は盗みをしました。今後絶対にしませんからお許しください」と謝罪の叩頭を続けた。

戦争映画などではよく、日本人を馬鹿にするかのように、昭和天皇による玉音放送にあった一節「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」が流される。しかし、玉音放送すなわち終戦詔書全文が紹介されることはない。

玉音放送では、宣戦及び降伏の動機について率直に語られており、崇高ともいえるその内容を日本人に知られたくない人々が日本に存在し続けているからだろう。

日本人であれば、涙なくして読めないはずである。未読のかたにはぜひ全文読んでいただきたいが、特に重要と思える箇所を紹介しておきたい。

そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。

先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。

しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。

それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。

それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。

そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。

これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。

日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。

考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。

あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。

しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。*11

宣戦に至った経緯については、宣戦の詔書に詳しく述べられているので、参照していただきたい。

「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」の一節が、叩頭を続ける兵隊への励ましの言葉として出てくる。

津山兵長は監視兵の眼を盗んで土下座した兵に近づき、「頑張れ、頑張れ、我々は生き抜いて日本へ帰るんだ。ここで挫けては駄目だ。作業終了時刻まで頑張るんだ。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、我々は共に生きて祖国日本へ帰るんだ」と熱心に激励し続けていた。*12

戦争物には、あまりにも一面的な描かれかたをしているものが多いように思う。それを後押ししたのは、残念ながら坂口安吾のような作家たちであったのではないだろうか。

エッセー「特攻隊に捧ぐ」の次のような箇所など読んでも、そのように思わずにはいられない。

私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない。特攻隊よりも遥にみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングル に、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然し、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思う。*13

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私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。*14

ここまで特攻隊を馬鹿にした文章を、よくも書けたものだ。「特攻隊よりも遥にみじめに」とあるからには、特攻隊はみじめであり、それより更にみじめだったのがジャングルに泥人形のように死んだ兵隊だと安吾は宣う。

田中氏の戦地――ジャングル――体験記録を読む限り、安吾がいうような「泥人形」のように死んでいった人間など、一人もいない。何て無礼千万な書きかたであることか!

安吾は、勇敢、男性的、潔さといった特攻隊のイメージを壊すために「可憐な花」を配し、あの平野、あの海辺、あのジャングル に作戦を展開した何百万の兵隊のサバイバルをなかったことにするために彼らを「泥人形」にしてしまうのである。

その歪んだ書き様からは、出征しなかった――したくなかった――人間のけちなコンプレックスが感じられるように思う。

面白いことに、この作品についてウィキペディアに「随筆「特攻隊に捧ぐ」を『ホープ』に寄稿したが、GHQの検閲で全文削除となり未発表作となる」*15とあるではないか。GHQ には読解力がなかったと見受けられる。

田中軍医の「タイタニック」ばりの脱出劇と醤油樽

慰安婦問題、植民地支配、日本軍の残虐性――といったジャパンバッシングの根拠とされてきた歴史的事象が、田中保善『泣き虫軍医物語』を読む限りにおいては、真っ赤な嘘、捏造にすぎず、第二次大戦は日本人にとってはまさに大東亜戦争であったことが明白にわかる内容となっている。

この一冊の本では飾らぬ心情が吐露されている。そこから、底抜けに明るく、お人好し、その一方では思慮深く果敢な一人の大日本帝国軍人の人間像が立ち現れてくるのである。

そうした意味において、このコンパクトな本は期せずして、第二次大戦における大日本帝国軍人の行動様式、思考傾向を如実に示した、一歴史資料と見なすに足る性格を備えているといえよう。

前述したように、本書、田中保善著『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は、第二次大戦末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録である。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の『泣き虫軍医物語』が上梓されたのは、それを13年遡る昭和55年(1980)のことであった。

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キナバル山


Taras KretyukによるPixabayからの画像

田中保善氏は、別の本『鹿島市史 真実の記録』(1990)で、戦時中は祐徳稲荷大神及び萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっていた。

田中氏が命拾いした体験を前掲書『鹿島市史 真実の記録』から拾っておこう。*16

  1. 輸送船が敵の潜水艦に撃沈→海に飛び込んだ約 500 人死亡したが助けられた
  2. ボルネオへ航行中のマニラ丸に敵の砲弾が命中→不発弾
  3. 陣地巡回診察中、敵戦斗機に狙われ機銃掃射→軍刀の鞘に命中
  4. クダット県知事公舎に敵の戦斗機が三機来襲→直前に脱出成功
  5. 患者輸送隊コタブルト到着で準備された大きな医務室を敵が早朝、大爆撃→前夜、患者のいるアバラ屋に戻って無事

 萬子媛を研究中のわたしは、当然ながらそうした内容を期待して『泣き虫軍医物語』を注文したのだった。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品だった。本の扉に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出した。

小学校だったか中学校だったかは忘れたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔だった。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではない……

プロフィールから引用する。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応召。同21年4月復員。……(後略)……

期待に反して、『泣き虫軍医物語』には命拾いした事実が事実のままに活写されているだけで、それを祐徳稲荷大神及び萬子媛に結び付けるという宗教的考察はなされていず、それが窺えるような真情の吐露も記述されていない。

あからさまな神秘体験の記述は全くないのだ。命拾いした出来事と稲荷大神及び萬子媛とが結び付けられたのはどの時点であったのか、それは不明である。

しかし、次のような故郷の芳香漂う出来事を、故郷を見守っておられる神々の神慮によってもたらされた奇跡的体験といわずして、何といおう? 田中氏は後年の著書で、そのように解釈されているのである。

それは映画「タイタニック」ばりの脱出劇の中で起きた。そのハイライトシーンを紹介したい。

簡単にそのときの状況を説明しておくと、田中軍医は、久留米陸軍病院から南方派遣部隊に編入された。太平洋の島々は次々と連合軍に占領されて戦局は重大化。サイパン島昭和19年7月7日に玉砕。この時期に南方に派遣されることは死を意味していた。

駆逐艦水雷艇駆潜艇、飛行機に護衛された船団12隻は9月10日、門司港を出港し、朝鮮海峡東シナ海と南下するにつれて沢山の輸送船団の往来に出会う。台湾の基隆沖に差しかかった。

夜10時頃、ドスーンと腸に響く大音響。夜空に火花を上げながら、船尾を真っ逆さまにして沈んでゆく、後続の輸送船。いわゆる轟沈であった。

四千名以上の兵隊が何らなす術もなく海底に呑み込まれたに違いない。いかに戦争とはいえ悲惨極まりなく、初めて体験した死の恐怖に心臓も凍る思いであった。*17

船団は2日後、高雄港へ。行手には潜水艦が待ち受ける、魔のバシー海峡

船団は飛行機と艦艇に守られながら強行突破。船団が進む間に、友軍機と艦艇は合計4隻を撃沈。船団が比島(フィリピン諸島)に近づくにつれて沈んだ輸送船の残骸が多くなった。

魔のバシー海峡を無事に乗り切り、高雄港を発って3日目の30日、リエンガエン湾のサンフェルナンド港に到着。

久留米部隊は港から8キロ離れた海岸へ向けて出発。その行軍が身体にこたえた田中軍医は不覚にも、自らが患者第一号となってしまう。幸い、軽症だった。

背嚢を当番兵に持ってもらって歩いていると、垣根に真っ赤なハイビスカスの花の咲き乱れる家々があり、予定の海岸に辿り着く。ヤシの林の中に点々と民家があり、その中の一軒を医務室にする。クリスチャン農家らしかった。

「家の中の物を荒らしてはいけない。何も盗んではいけない」と田中軍医は皆に注意する。医務室に配給の砂糖1俵と缶詰5箱が届いた。食事もすんだ頃に家の主人らしい比島人が来て英語で話しかけたが、田中軍医には解せない。

主人は、家の内外を見て回り、何も荒らされていないのを喜び、すっかり信頼して、両手いっぱいの卵を差し出した。

田中軍医は、何もいらないから壁の棚に置かれていた発火道具を譲ってくれ、と日本語で頼む。スコールでマッチが駄目になったときのために必要だった。主人は希望を了解して承知してくれた。

当地区の司令官から、サンフェルナンド地区は国道の沿線は安全だが、国道から4キロ離れた密林中には米軍大佐の率いる5千名のゲリラが国道筋をうかがっているとの通達があった。比島は全部平定されて、攻撃して来る米軍のみが敵だと思っていた田中軍医は、「安全なのは点と線だけなのか」*18と思う。

翌日、異動命令があり、サンフェルナンドの街はずれに移った。軍医一行はエジプトの街のように石造りの家が並ぶ街を見物し、コーヒーを飲もうと思い、コーヒー店の前に行列を作って順番を待った。

焼けつくような暑さにコーヒーを諦めて、横の丘に登る。そこには、バシー海峡で救助された兵隊達やら群馬県出身の若い女性たちがいた。

女性たちは、南方のジャワ、スマトラ、昭南(現在シンガポール)等の商社や軍関係の偕行社の女子事務員として、赴任途中だったという。救助された兵隊達は満州国境から南方へ派遣された部隊であった。

魚雷を食って全員が退船した時、一名の兵の姿が見えなかった。中隊長は皆が危険だからと止めるのもきかず、その兵隊を求めて輸送船に引き返し、捜しているうちに船もろとも沈んでしまった。部下思いの中隊長を偲んで兵達は涙ぐんでいた。日露戦争旅順港口封鎖作戦における広瀬中佐と杉野兵曹長の話とそっくりである。
 それに引き替え、部隊長と船長はボートに乗り移り、兵隊も乗ろうとすると、沢山乗ってはボートが沈むと、ボートに掴まった兵隊の手を払い除けて海に突き落として漕ぎ去った。泳ぎながらこれを見ていた兵隊達は、陸へ上がってからも部隊長と船長の態度を非難し続けた。私はこの話を聞いて、もし自分がそうなった時は、兵隊から非難されるようなことは絶対にしないと心に誓った。*19

すぐ後に、田中軍医は同様の惨事に身を置くことになる。

10月10日午前11時、サンフェルナンド港を出航した12隻の輸送船団は比島西岸を海岸沿いに南下。今度は護衛艦が半減し、飛行機の援護もなかった。田中軍医の乗船「江尻丸」(貨物船、7千トン)は第四番船で、煙突に「4」の字が大きく書いてあった。縁起が悪いと兵隊たちは心配する。

12時頃、右側を護衛していた駆逐艦が急に面舵を取り、「右舷前方二時の方向に魚跡、魚跡!」とけたたましい叫び声が上がった。

このときは魚雷をうまくかわした江尻丸だったが、2時半ごろ、また突然「魚雷、魚雷!」の叫び声がした。田中軍医は便所で放尿中だった。江尻丸は今度はかわしきれなかった。

惨事、と一言でいえないほど、海と船と魚跡を活写する著者の描写は絵画的ですばらしいが、引用の制限もあって、全部は伝えきれない。

船が爆発して沈む前に退船しなければ死ぬ。部屋に降りて軍刀、図嚢、軍医携帯嚢を取り出したかった田中軍医は果たせず、かろうじて拾った救命胴衣を着用し、海に飛び込むために左舷へ急いだ。

船は惰力で進み、艦橋から全員退船の命令を伝える進軍ラッパが鳴り響いていた。敵の魚雷は、戦車を積んである船倉に命中していた。

その爆発で船倉の上にいた沢山の兵隊達は、粉々になった戦車の破片とともに肉体もバラバラになり、噴き上げられて船内各所に落ちてくる。私の胴衣にも灼熱した戦車の破片が飛来して、襦袢を通して右脇腹に食い込んだ。灼けつくようにチリチリと痛い。私は右脇腹の傷はそのままにして甲板を左舷へ急いだ。無電のアンテナを張ってある針金に兵隊の胸部だけが引っかかっている。首も両手も腹から下もない。剣道道具の胴が引っかかっているようであった。肉片が甲板に落ちて、それを兵隊があわてて踏みつけ、バナナの皮を踏みつけて滑って転ぶように甲板上に転がる。海へ飛び込もうと兵隊はひしめきあい、それにつまずき折り重なって倒れる。*20

前後左右の兵隊にはさまれ、足が甲板につかないまま引きずられていき出した田中軍医は、いつしか兵隊たちの頭の上に転がされてしまう。左舷は遠ざかっていた。

弾薬をいっぱい積んだ船倉に燃え移ったら船もろとも爆発して死ぬことになるので、田中軍医は自分から兵隊の頭の上を転がっていき、やっと甲板の橋の鉄の鎖に掴まった。ここで著者は、「私の左右で次々と兵隊達は元気に飛び込んでいる」と書く。読みながら、まるで水泳の授業が描かれているような錯覚に陥った。

海面まではめまいがするほど高かったが、水泳に自信のある田中軍医は思い切って飛び込んだ。

グングンと一直線に海底に向かって沈んで行き、早く浮上したくとも、高所からの飛び込みであったため、沈下が止まらない。これ以上もたないくらいになってやっと沈下が止まった。浮上しようにも呼吸が苦しくなり、思うように力が出なかった。

船体から離れた45度くらいの角度で浮上したつもりが船尾に近く、船尾にはスクリューが回っていた。渾身の力でクロールで泳いで、船体から離れた。夢中で泳ぎ、泳ぎをやめてみると、救命胴衣の浮揚力が大したものではないことに田中軍医は気づいた。2、3時間もつかどうかだった。

立ち泳ぎをしていると、顔に水筒が当たってうるさい。時計は中が水浸しになりながらもまだ動いており、12時45分。海岸までは1キロくらい。引き潮で海水は沖へ向かって流れていて、思うように進めなかった。

爆発で海中に散らばったいろいろな物が流れてきた。そのとき、驚くべきものを田中軍医は発見するのである。

なかでも私がびっくりしたのは「佐賀県藤津郡吉田村」と墨で書かれた空の醤油樽であった。はるか故郷を離れた南海で、しかも海に投げ出されて藁をも掴む気持ちでいる時に、故郷鹿島町の隣の吉田村と書かれた醤油樽が流れてきたのである。急に故郷に残してきた母や妻子を思い出し、なんとかして助からねばと思い、その醤油樽を拾って麻縄で腰にくくり付けた。浮揚力は救命胴衣よりもずっと強い。*21

ここがハイライトシーンである。

神秘主義者の目で見ると、これは偶然の出来事ではない。高級霊がカルマとのバランスを考えながらなさる、典型的な救助例の一つと思える。それは、偶然を装って行われるのが常なのだ。

爆発したのは貨物船だったのだから、その中に醤油樽が混じっていたとしてもおかしくはないが、溺死しそうなこの窮地で故郷の名を記した醤油樽が流れてくるなど、いくつもの偶然が重なるのでなければ、起きることではない。

「萬子媛、大戦中もよいお仕事をなさっていますね。さすがです」とわたしは半ば呆れた。醤油樽は使命を帯びていた。そのとき、大海原に降り立っておられたに違いない、萬子媛のオーラの輝きがわたしには見えるような気がするのである。

驚き桃の木山椒の木の慰安婦問題

「日本軍慰安所マップ」(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam、東京都新宿区))というサイトがマップ作成の資料として、『泣き虫軍医物語』から何箇所も引用していることがわかった。

wam-peace.org

ウィキペディア「女たちの戦争と平和資料館」より、引用する。

日本の慰安婦問題の責任を追及するためのでたらめな民間抗議活動(女性国際戦犯法廷)を行った一人である元朝日新聞記者の松井やよりの遺志を継承するため、NPO法人「女たちの戦争と平和人権基金」が設立主体となり2005年8月に開館した資料館。「日本ではじめて戦時性暴力に特化した記憶と活動の拠点」として悪質なねつ造展示等が一部含まれている。

常設展示としてでたらめな「女性国際戦犯法廷」の概要を説明するパネルとともに、アジア各国の「慰安婦」被害に関する企画展、自称日本軍兵士の証言、今も世界で続く戦時性暴力に関するパネル等を展示している。展示内容はほぼ年1回変更がある。企画としては、日本の中学生を対象とした「中学生のための『慰安婦』展」などがある。*22

日本には当時、公娼制度があった。民間業者により報酬が支払われていた。

「日本軍の慰安所に入れられた女性も強かんされた女性も、性暴力被害という意味では同じ」という定義は、公娼制度自体を戦後フェミニズム史観で断罪していると思える恣意的定義である。

いずれにしても、「慰安所に入れられた」という強制性を明確に打ち出したこの定義に、商売色濃厚な引用箇所が当てはまるとは思えない。

小説、映画、オペラから娼婦を排除すれば、これらの分野自体が成り立たなくなるといってよいくらい、娼婦は芸術作品によく登場する。アレクサンドル・デュマ・フィス『椿姫』、永井荷風『墨東綺談』……村上春樹の小説なども、わたしは娼婦文学の一種と考えている。

辻本庸子のオンライン論文「アメリカ文学における女性像 : 二つの娼婦物語」*23は、娼婦問題の複雑さを的確に捉えていると思うので、次に引用する。

セクシャルハラスメントは、権力関係をたてに他者の身体を不法に搾取する行為であり、その権力関係によって相手の自由意思を封じ込めてしまう暴力性を孕んでいる。セクシャルハラスメントが問題視されるようになったのは、ごく近年のことであるが、他者の身体を搾取するという行為そのものは、はるかに古い歴史を持つ。なかでもアメリカで文字どおり身体が搾取され、二十世紀初頭に「白い奴隷」と呼ばれたのが娼婦である。北アメリカ大陸における娼婦の歴史は、植民地の誕生とともに始まるが、その存在が人々の注目を浴びるのは、人口が都市に集中化する十九世紀後半のことである。娼婦を男性の性的欲望の対象となる抑圧された性奴隷とみるか、あるいは一個の独立した職業人とみなすかは意見の別れるところであろう。*24

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娼婦の歴史は長い。娼婦は単に売春を行う者というだけでなく、「神殿の娼婦」「色恋の女神」「漂白の聖者」など国により文化によって異なる多彩な役割をになってきた。*25

芸術作品に娼婦がある輝きを帯びて登場することがあるのは、引用にあるように、娼婦が「国により文化によって多彩な役割をになってきた」ことと関係が深い。

例えば、田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)から引用された箇所の一つである次の文章などは慰安婦虐待の絶好の資料として歓迎されたのではないだろうか。

分院では私が赴任する以前は、クダットの慰安婦の検梅に軍医がいないので、衛生下士官が実施していたが、私が赴任してからも私が多忙なため、従来通り衛生下士官に任せることにした。しかし、クダット飛行場からレイテの戦場に飛行機が出撃する時は、健康な慰安婦が不足すると、病気がある者も黙認して航空兵の接待をさせたと聞いた。*26

「接待をさせた」と書かれているが、文脈を辿れば、強制性を伴っているようには読めない。検梅とは、梅毒に感染しているか否かを検査することであるから、ここでの病気の正体は明らかであろう。そして、接待とは、客をもてなすことである。本来であれば、梅毒に罹患した慰安婦に対して商売禁止にするところを、あえて許可したのである。

なぜ許可したかといえば、おそらく慰安婦が出撃前の航空兵のよき慰め手であることを期待されたからではないだろうか。

まず生還を期せない決死の航空戦隊が発進する時は、肌身につける襦袢、袴下は新品を着せて恩賜の煙草を与え、恩賜の酒を飲ませて皆が見送った。*27

このような状況を前にして、残忍な強姦を許すための黙認であったとは思えないのである。それに、日本兵は日本人の慰安婦を好んだようで、朝鮮人慰安婦(売春婦)が特に多かったようには思えない。台湾、ジャワ島からも来ていたとある。

田中軍医は、千代龍という源氏名のアピナンバーワン芸妓に惚れてしまう(アピは地名)。彼女は真奈木参謀長のお気に入りだった。田中軍医は参謀長の嫉妬を買い、ボルネオ北端のクダット防衛に回された節があった。

前年の10月に連合軍がレイテ島に上陸、比島(フィリピン)が占領されるという戦局の悪化する中で迎えた昭和 20 年元旦、流行性肝炎にかかって寝込んでいた田中軍医の病気は軽快した。当番兵達がヤシやバナナの葉等で宿舎の前に門松を立てて常夏の正月を祝う場面は、印象的である。

戦争末期の戦地ボルネオ体験記というと、悲惨な場面の連続かと思いきや、場所により、状況により、危険度は様々で、日本軍が可能な限り規律正しい、文化的な生活を心がけていた様子が窺える。

慰安婦問題の問題点は、論文からの引用にあるように、「娼婦を男性の性的欲望の対象となる抑圧された性奴隷とみるか、あるいは一個の独立した職業人とみなすかは意見の別れるところ」なのだが、前掲サイトは当然のように前者の側に立ち、どのような権限でか、日本軍をひたすら断罪する。

パンパンといわれた在日米軍将兵を相手にした街娼(私娼)が、米軍に損害賠償の請求をしたという話は聞かない。断罪するのであれば、明らかな性犯罪者のみを戦勝国、敗戦国の区別なく、断罪すべきだろう。韓国のライダイハン問題は解決済みなのだろうか。

第一、慰安婦の定義がどうであれ、日韓基本条約の締結で、全て解決済みであるはずのことなのだ。

最終的に両国は、協定の題名を「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」とした。この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することに合意した。*28

そもそも、慰安婦問題が発生したのは1983 年に吉田清治氏の証言を朝日新聞が採り上げてからで、その朝日新聞は 2014 年 8 月 5 日に吉田証言を虚偽と認定して記事を撤回したはずである。

*1:ウィキペディアの執筆者. “ボルネオ島”. ウィキペディア日本語版. 2020-08-14. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%AA%E5%B3%B6&oldid=78985663, (参照 2021-02-17).

*2:ウィキペディアの執筆者. “坂口安吾”. ウィキペディア日本語版. 2021-02-12. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE&oldid=81792670, (参照 2021-02-17).

*3:坂口 安吾. 『坂口安吾全集・444作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.97732-97736). Ango Sakaguchi Complete works. Kindle 版.

*4:坂口 安吾. 『坂口安吾全集・444作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.97761-97765). Ango Sakaguchi Complete works. Kindle 版.

*5:坂口 安吾. 『坂口安吾全集・444作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.97806-97808). Ango Sakaguchi Complete works. Kindle 版.

*6:坂口 安吾. 『坂口安吾全集・444作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.84219-84226). Ango Sakaguchi Complete works. Kindle 版.

*7:田中,1980,p.8

*8:田中,1980,pp.9-10

*9:田中,1980,p.197

*10:田中,1980,p.165

*11:ウィキペディアの執筆者. “玉音放送”. ウィキペディア日本語版. 2020-12-16. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%8E%89%E9%9F%B3%E6%94%BE%E9%80%81&oldid=80899274, (参照 2021-02-17).

*12:田中,1980,pp.212-213

*13:坂口 安吾. 『坂口安吾全集・444作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.57663-57670). Ango Sakaguchi Complete works. Kindle 版.

*14:坂口 安吾. 『坂口安吾全集・444作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.57678-57683). Ango Sakaguchi Complete works. Kindle 版.

*15:ウィキペディアの執筆者. “坂口安吾”. ウィキペディア日本語版. 2021-02-12. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE&oldid=81792670, (参照 2021-02-17).

*16:田中,1990,pp.157-158

*17:田中,1980,p.28

*18:田中,1980,p.34

*19:田中,1980,p.36

*20:田中,1980,p.38

*21:田中,1980,p.41

*22:ウィキペディアの執筆者. “女たちの戦争と平和資料館”. ウィキペディア日本語版. 2021-03-29. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A5%B3%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8&oldid=82706955, (参照 2021-05-06).

*23:辻本庸子. アメリカ文学における女性像 : 二つの娼婦物語. 神戸市外国語大学国学研究. 2004-03-31, 59, p.157-415. http://id.nii.ac.jp/1085/00000676/, (参照 2020-07-13).

*24:辻本,2004,p.2

*25:辻本,2004,p.14

*26:田中,1980,p.99

*27:田中,1980,p.99

*28:ウィキペディアの執筆者. “日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約”. ウィキペディア日本語版. 2020-07-10. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84&oldid=78403509, (参照 2021-02-17).